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三河の住人の庵

三河の住人の庵

月山富田城

2012.08.18登城  2012.09.02作成

道の駅「広瀬富田城」に駐車して 歴史資料館に立ち寄りガイドマップをいただいた。
ついでに竹杖を拝借して本丸に向けて教えられた道をたどる。

お子守口の階段をあがると千畳平、そして太鼓壇。
ここには 尼子家再興の夢を追った山中鹿之助幸盛の立像が建っている。

  • 月山山中鹿之助.JPG


ここから奥書院平、花の壇を経て月山中腹に位置する御殿平(山中御殿さんちゅうごてん)に達する。
富田城の御殿のあったと伝えられる場所で塩谷口、菅谷口、大手口という主要通路の最終地点になっている。
周囲に高さ5m程の石垣や門、塀、櫓などを巡らせ敵の侵入を防いでいた。

  • 月山.JPG


(菅谷口門跡)
  • 月山菅谷口.JPG


御殿平から七曲りと呼ばれる急坂をたどって最後の砦三の丸に達する。

  • 月山三の丸.JPG


二の丸に休憩所が設けてある。
花の壇で給水してきた ペットボトルの水を飲み シャツを脱いで 汗をしぼった。

壁にかかった額には 小学校国語読本巻二  月山頂上からの眺めを詠んだ文(井上赳)が掲げてあった。

「山 ノ 上
ムカフ ノ 山 ニ ノボッタラ、山 ノ ムカフ ハ、村 ダッタ。
タンボ ノ ツヅク ムラ ダッタ。
ツヅク タンボ ノ ソノ サキ ハ、ヒロイ、ヒロイ ウミ ダッタ。
青イ、青イ ウミ ダッタ。
小サイ シラホ ガ 二ツ 三ツ、青イ ウミ ニ ウイテ ヰタ。
トホク ノ ハウ ニ ウイテ ヰタ。」

月山の標高は197mと言う説と184m説がある。

  • 月山眺望.JPG


戦国期 出雲尼子氏の本拠であった月山富田城は2度の籠城戦を経験している。


天文11年(1542)1月 大内義隆は出雲に向けて出陣 毛利元就もこれに従った。

前年 尼子晴久が 毛利氏の本拠 吉田郡山城を攻めたが 毛利軍と大内軍の援軍によって撃退された。この結果 尼子方の国人領主から大内氏に付くものが多く現れた。好機到来であった。

4月出雲に侵入したが 赤穴城の攻略に手間取り 年を越して3月にようやく月山富田城の攻防が始まったが城攻めは難航。兵站の補給に苦しむ大内軍を見限り 寝返る国人衆も続出。

5月撤退する。大内義隆はかろうじて周防に逃げ帰ったものの 甥で養嗣子晴持は船の転覆により溺死した。
これ以降 義隆は政務への興味を失う 後年 陶晴隆の謀反を招いてしまう。

毛利元就・隆元親子は 家臣の助けによりかろうじて落ち延びた。

永禄5年(1562)7月 毛利元就は3人の息子と軍勢を率いて吉田郡山城を出陣、石見路を経由して出雲国へ侵攻した。
月山富田城の日本海側の玄関口ともいうべき役割の白鹿城との分断を図った。

永禄6年(1563)10月 白鹿城が落ちた。

その後 毛利軍は 尼子氏の拠点を次々と制圧。毛利水軍によって海上も封鎖し月山富田城への補給線を断った。

永禄8年4月 毛利郡の総攻撃が始まったが難攻不落の富田城を攻めあぐね力攻めをやめ兵糧攻めに切り替えた。

永禄9年(1566年)11月尼子氏降伏、尼子義久らは安芸国に引き取られ幽閉された。

尼子氏の降伏に不満を持つ山中鹿介こと山中幸盛は、叔父である立原久綱らとともに尼子氏再興の活動に奔走した。
永禄11年(1568)京都の東福寺で僧籍にあった尼子国久の孫、勝久を還俗させて擁立した。
永禄12年(1569)7月 6000の兵を集めた幸盛は月山富田城攻略に着手したが 城を守る毛利元秋・天野隆重らに撃退された。

山中鹿之助幸盛は その後も尼子家再興を夢見て各所で戦ったが 天正6年7月、上月城の闘いで降伏、備中甲部川阿井の渡で吉川元春により謀殺された。34歳であった。
常に三日月を拝して「願わくは我に七難八苦を授けたまえ」と祈ったという。


 

 








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